2006年9月 4日

ある一線

黒猫の一言:

最近のニュース 身の回りで起きたこと 人から聞いた話
そんななかで ある一線ということについて
今日は 黒猫談義をしようと思います。

ある一線
それは 本来その人が踏み入れてはいけないエリアに入ること。
そのエリアとは 法的に犯罪となること
人として 倫理、道徳に反すること
そんな考えで話を進めていきます。

最近よく キレるという言葉を耳にします。
この言葉が当たり前のように使われるようになったのは
いつからなのでしょうか?

昔風にいえば 
堪忍袋の尾が切れた。
カチンときた。
なんて ニュアンスなんでしょうか? 

でも ちょっとちがいますよね
今のキレたというのは 他人に何らかの被害を
与えて 問題となる行為を行うこと 

 
ある我慢の限界には ある一線というものが存在します。
その我慢とは 欲望に対する我慢であったり 
怒りに対する我慢であったり 倫理道徳に対する理性だったりします。
つまり自制心ということでしょうか?

それは 自分自身の過去の経験
これをしたら どうなってしまうといった推測を元に
作られるんだと思います。

ですが このある一線 これを越えるのは
あんがい簡単なようです。

その境界線となるものは とても細く
そのときの感情、心情、欲望、責任の転化によって
ある種 本人は気がつかない また 無視しても
さしさわりないものと認識できてしまいます。

その時点では 自分が ある一線を越えてしまった
たった一歩で どれだけ大きなものを踏み越えてしまったか
気がつきません。
それによって 失うもの 傷つけるもの はたまた己が傷つくもの
しかし 気がつくのは 必ずしも後になってから・・・


気がつくまでの時間は 事柄、人によってさまざまだとおもいますが
(まあ いつまでもそれにも気がつかないお気楽な人もいますが・・・)

結局気がついたときに 訪れるのは後悔なんです。
後になってからでは もう取り返しのつかないことなんです。

物事の大小はあれど 誰もが経験のあることだとおもいます。

私の知り合いにも 自己満足を得たいがために
ある一線をこえて ひと時の安心を手にしようとした人がいます。

その当時はなにを言っても 目先の安心しか見えておらず
自分の人生に傷をつけてまで くだらない願望と意地を
通そうとして いました。

本当にその一線を越えたことで 幸せになれたのでしょうか?
それが その人にとって 前に出るための一歩だったのでしょうか?
単に その場の辛さから逃げたいがための理由を
正当化しただけの 甘えた逃げだったと今でも思います。

それが後悔に変わるのはいつなのでしょうか?
いつ その人は自分の取り返しのつかないあやまちにきがつくのでしょうか?

なんか取り留めのない文になってしまいましたが
意味がわからない場合は 流してください あしからず・・・ 

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